歯がないのに、そこが痛む。様々な検査をしても、隣の歯にも、向かいの歯にも、歯茎や骨にも異常が見つからない。それなのに、患者さんは確かに「歯があった場所」の痛みを訴え続ける。これは、非常に稀ですが、実際に起こり得る現象で、「幻歯痛(げんしつう)」と呼ばれています。手や足を失った人が、ないはずの手足に痛みを感じる「幻肢痛」はよく知られていますが、それと同じことが歯でも起こるのです。この不思議な痛みのメカニズムは、まだ完全には解明されていませんが、脳の働きが深く関わっていると考えられています。私たちの脳の中には、体の各部分に対応する「地図」のようなもの(体性感覚野)が存在します。歯を抜くということは、その地図から「歯」という領土が突然消えることを意味します。しかし、脳はすぐにはその変化に対応できません。歯からの信号を受け取っていた脳の神経細胞は、入力が途絶えたことで混乱し、異常な興奮状態に陥ることがあります。この異常な興奮が、「痛み」という信号として認識されてしまうのです。つまり、痛みの原因は口の中にあるのではなく、脳の中にあるということです。幻歯痛は、抜歯の際に神経が大きく損傷した場合や、抜歯前からその歯に強い痛みがあった場合に起こりやすいと言われています。また、精神的なストレスが痛みを増幅させることもあります。診断は非常に難しく、他のあらゆる原因を排除した上で、最終的に幻歯痛の可能性が考えられます。治療も一筋縄ではいかず、一般的な痛み止めはあまり効果がありません。抗うつ薬や抗てんかん薬といった、中枢神経に作用する薬が用いられたり、カウンセリングなどの心理的なアプローチが必要になったりすることもあります。もし、あなたが原因不明の「歯がない場所の痛み」に長期間悩まされているなら、それはもしかしたら、あなたの脳が失った歯を記憶しているサインなのかもしれません。